神様は有難い方そしてこわい方
昭和四十四年一月十八日 月次祭
18日のお月次祭に併せまして、御造園の完成報告御礼祭を、奉仕させて頂きました。ほんとにあの、いつものことでございますけれども、有難いことだなあと、神様のこのような働きを頂いて、その働きの中に、このようにも間違いのない働きの中に、おかげを頂いておると、そのおかげをただ、素晴らしいな間違いないなというのではなくて、一つお互い各々の上にも、その間違いのない神様の働きを、頂き止めなければ値打ちがないのでございます。ですからそこのところを、只今、信徒会長秋永先生が申しとりました様に、なところをに各々一つ焦点を、どこにおくかと、各々の信心の焦点をどこにおくかということろ≪ところ≫を、一つ追求していかなければいかないと思うのです。
例えば、今日の、報告祭でございますので、ただの月次祭だけでという形式だけでは、あいすまんとおもいまして、せめてそういう報告のお祭をするなら、お祭りらしい、ま、どこにかかわらなきゃならないと思いましてね、いつも、皆さんご承知のように鯛はある方が必ずお供えをなさいます、大きな鯛を、ですからいつも、それに対する青がございませんでしょう。ですから、神様に私はその鰤のことをね、小さい鰤でもよいから、あの鯛にふさわしい鰤をどうぞお繰り合わせ頂きますようにということを、でなかったらほんとのお祭りらしくないでしょうが、ま、月次祭の時には、まあまあですけれども、今日はそうゆう様な一つの、とりわけ、それに合わせてお祭りを、しておるのでございますから、ね、やはりお鏡様はなからにゃいけん、赤は鯛がなからにゃいけん、青はやはり小さい鰤でもこう絞れるくらいな鰤が欲しいな、だからそのことを神様にお願いさして頂いておりましたらですねぇ、いつも鯛をお供えされる方が、今日は鰤を持ってきてるんですよ。
もう、ただただ驚くばかりでございましょうが、ね、そして鯛はちゃんとその前にきとったんです、他から、いやあ私は久富先生に神様は、間違いないね、ということでございます。ね、おそらく、いつも鯛をお供えされる方が、魚屋にたのんどったけども、行ったけどもおそらくなかった下なんかでしょう。「鰤ならあります」、しようなかて、「なら鰤で」、そのしようなかてと、その鰤でしかなければ、今日はいけなかったんです。でないと、鯛ばっかりになるけん。ね、やはり、赤と青とが、こう揃わせて頂いて、そのように、いわば間違いのない神様の働きがですよ、この合楽全体の上に、頂けておるということ。
ね、ですから、また、それとは、反対の意味合いにおいてもです。それは、ある意味合いでは、厳しいことでございます。もうここに、お月次祭を3回今年に入って、お仕えさして頂いて、3回とも、お湿りでしたね、皆さん、元旦は、あの雪ぶりでしたし、十日は、あのお湿りでしたし、今日もまた、朝からこのお湿りでございます。ね、ほんとに、結構なお湿りを頂いてと、だけでは済まされないものを、感じます。
「合楽の、お月次祭には、傘はいらんぞ」とさえ云われるくらいな、天地が自由になってくださるごとしの、神様を頂きながら今申しますような、間違いない、神様を頂きながらです。ね、続いて3回合楽のお月次祭弐、お湿りがあるということは、こりゃ、もっと私を始め、みんなのものが、間違いないところをです、いわば、分からしてい頂かなければならんということをね、一つ考えて頂きたいと、こう思うのです。
ね、それはもう、御造園のことにつきましては、それに携わっております。特に、委員長、副委員長なんかは、毎日出て参りましてから、毎日その庭を造られる方との、話し合いがです、ね、ほんとに、あれが必要、これが必要というものが話ようることが、神様が、向こうのほうで、聞きござるようにして、集まって参りましたよ。もう石ね、植木といったようなものが、確かに神様がお働きくださってあるんだなぁ、神様が先頭に立ってござったるんだなぁと感じさせて頂いたんですけども、これはどこ迄もですね、これは合楽教会に対するおかげなのですね、まぁ言うならば日本一的なこのようなみごとなお広前が出来た、ある意味合いにおいてですよ、大きなお広前はなんぼでもありますけども、ある意味あいにおいて、私は日本一的なものを、このお広前は持っておると思うんですよね、
この御造園ということにおきましても、ですから、そのお広前にふさわしい、たとえばこの造園ね、さっきから前回も言っておられます様に、石組みのことに於いては、日本一であろうと定評のある梅里先生が、それこそ最近ですね、このくらい一生懸命になったことはないね、そしてですね、もうとにかくスムーズであることに驚かれたんですね、10日間みえられて10日間あの夜はおしめりであっても昼はあがるといったような、10日間ぶっつづけに御用が出来られたと言うことね、そのもうまあいろんな事についてですね、神様の働きをまあ疑うわにはまいりませんほどに、おかげを頂いてまいりましたね。
これは、それでもどこまでもね、それなら神様が喜んでござると言うことよりもですね、私共合楽全体を、喜ばしてくださるのです。言うならばお互いがここで、信心の稽古をさせていただくにふさわしいお広前であり、外観でありね、いわゆる造園であると言うことなのです。今朝から久富先生でしたでしょうか、『御神夢か御神願で頂いておられますのにね、氏子がままになって、神がままにならん、という意味のことを頂いておられるんです最近ね。
それからこれは誰だったですかね、久富勇さんだったですかね、『あの私がね、もちろん信者さん方達がまあ幹部の方が全部おる処で、私がいかにも肩がこってたまらんというように、こう自分で肩をやっているね、それを誰かが揉まれるじゃろうと思うてから、勇さんが、見ておられたが誰も、もみてがない。とうとう先生が腹かかしゃった。腹かいて立ち上がってから、ぶんぶんやったけ着てござった紋付きなんてはぁと脱いでからもう奥様の前にこうやって紋付きをはがゆくてたまらんちゅうなふうでたたきつけておられるところを頂きましたと言うのですね。
これは、まぁ、私がわが事と、頂いてはならんですけども、まぁ、言うなら、私を神様の姿と皆さん、思うて見てごらんなさいませ、神様が、ここをかいてくれ、ね、いつも申します様に、神様とても、人間の手を借らなければ足を借らなければ、お出来にならないことが一杯なのです。神様だけでは出来なさらんのです、ね、ですから神様が、はあここが凝って凝ってたまらんとこう言うてござるのに、見ておって知っておってそれに答えようとする者がおらんから神様がね、そのやるせないはがゆいおもいをです、どこにたたきつけようもない、
これ私人間で言うならば、言うならば家では家内がはあきだめのように、私のむさくさはね、もう家内がいつも受けてくれるわけなんです。だからもう信者の前ではそげなことはでけんでも、家内の前でならもう本当に 紋付きたたきつけて、はがいがっておると言うその姿がです、それを私の姿と思わずに、神様の姿であると皆さん思うてご覧なさい。
神様がそのように、はがゆい思いを、なさりょうることがあるんだと、これは私を含めて、皆さん合楽の信奉者全部なのだ、ね、ですからそこのところをです、お互いが一つ本気でね、分からして頂くと言うか、そこを一つ頂かしていただいてね、今朝からのご理解のようにね、神も助かり、氏子も立ち行く道が、開けてきたね、金光大神あって神が世に出た。氏子からも神からも、両方の恩人は、この方金光大神であると仰せられる。金光大神のお蔭で、神が世に出たと、私どもが神様を、世に現すと言うことは、どう言うことかと言うと、私がただ分限者になっただけではいけん、私が病気直っただけはいけん、その分限者になったら、分限者になった徳をもって、健康になったら、健康になったそのお徳をもってです、神様の喜んで下さると言うことは、神様がままになられりことの為に、健康をその例えば、分限の財をです、ね、私は使わせて頂ける信心こそがね、いわゆる本当に、神様が助かって下さるということに、なるのじゃないのじゃろうか。
ね、ま、ここ具体的に申し上げると、ま、今朝のご理解で頂いて頂きますと、まあ、いろいろの具体的なことが、お話してございますが、ね、これはどうでも、ただいま申しますように、間違いがない。このような働きを、ね、たとえば今日の、これこそ、もうここ言うならば、椛目ここを通して、もう19年間ですか、になりますが、月次祭にこの方が、鯛のお供えを、しなかったことがないんです。もう絶対してきたんです。20年近くあまり。月次祭のたんびに。それがです、今日だけはどうゆう分けか、鯛がお供えが出来なかって、鰤のお供えをしたとしたというところなんかはね、ただ、ただ、ただ人間の考えやなんじゃない、と言う事が分かるでしょうが。鯛の方はもうこっちに来取ったと、別にね。
そうゆう、ゆうならば、間違いのない働きもです、ゆうなら、これとは反対の意味合いにおいてもです、私が椛目で、合楽のお月次祭に、お湿りがあったらね、何日か続くぞ。そんなに間違いがない。それはよい意味合いだけではありませんよね。そういうように神様のはがいさを、例えば、その紋付きを家内に投げつけておるような姿がです、私はこの三回も続くお湿りの事のようにも、思われるのでございます。
ね、毎朝今この5日から、皆さん一生懸命の寒中修行が、あっております。ね、もう本当にお月次祭よりも勢いのある毎朝のご祈念が、ここで神習されております。ね、朝の五時にはもうほとんどここに、いっぱいの人が集まっております。ね、そして、一生懸命の信心修行を、させて頂いておりますがです、その、今度の私の信心修行の内容から、中身から、ね、神様が、神様に、どこを私が、はがゆい思いを、させておるだろうか、と。
昨日委員長と、副委員長と、その、梅里先生の所に、お支払いに行くことになってまして、その委員長が、ちょつと仕事の用事で、でけなくなった。さいわい丁度、会計の繁雄さんが、朝から御用いただいておりましたから、あんた、私の変わりにその、副委員長と行ってくれ、と、言うことで、繁雄さんと二人で、梅里先生の所にまいりました。大変まあ、もう大変、人ごとみな方らしいです。
ですからもう、いろいろ人ごとみな中に、帰りにその、あなた方二人と、委員長に、絵を一枚お土産に、差し上げましょう、と言うわけで、絵を色紙に三枚書いて下さってある訳なのです。ところが、それがそれぞれ違う訳なんですね。鶯の絵が一匹書いてある。一つはヒワの絵ビワの絵。一つは夏の夜の情景。蛍が飛び通うておる、と言うような、情景である。だから、その、誰もこれがよかっちゅ言うと、そのやっぱり、そのたいてい、その目をつけとる。だから、それがいかんから、私が、ここに持ってきて言われるから、そんなら、くじ引きなんとしなさい。それから、くじ引きをしました。
そしたら繁雄さんが、鶯の、その鶯が、一番よかっちゃ。その誰もが、もう鶯がほしかった。そりゃあもう、生きたようにですね、一枚の色紙の真ん中に、その何とも言えん、その趣の絵でございました。鶯が一匹書いてある。それでくじ引き一番当たったけん、私が鶯を貰う。二番に当たった宮崎さんが、あのヒワの絵を貰った。残った【】正義さん、と言うわけで、まあ皆、今日、それぞれ手渡した。
ね、そして私が、繁雄さんに、言うとです。繁雄さんあんたね、これからね、神ながらに、こうして、これを戴いた、と言うことはね、神様が何か、あんたに分かれて、言いござる。ね、例えて言うならば、その鶯が一匹、なるほど、それは、絵が素晴らしいから、一匹でも十分。むしろ、その何にも無いほうが、いいようだけれども、もう鶯には、梅の花が、つきものなんだね。「信心辛抱梅の花」あんたが見んさい、あんたが信心辛抱でけんけえ、あんたに鶯だけ。それこそ「信心辛抱梅の花やがて鶯来て止まる」。と言うが、信心辛抱梅の花がでけずにしてから、鶯だけで、来て止まっているような、感じじゃないか。
という訳です。さあ、あんたに求めたもうものは、信心辛抱梅の花、あんた方の信心なも、昔からね、善導寺の久保山の信心と言やあ、昔からもう、梅の花の信心で、通って来た。久保山先生を、また、現在の奥様を言うて、18年間、又19年間をですね、これこそ本当に、信心辛抱の、梅の花の見本の様な信心が、続けられておる。長男のあんたに、神様が、そこを求めてござる。これに梅の花が咲いて、梅の枝に、鶯が止まる。と言う、おかげじゃなからにゃいけんじゃないか、と、言うて話したね。
宮崎さん、こりゃあ、あんた、これはヒワが四把、ヒワと言やあここでもう昔からね、椛目では、合楽的めぐりと、言われておるね。合楽的めぐりとは、どうゆうめぐりか、とすらも、自分で気ずいていない。そこを一つ本気で分からして戴いてですね、本気で、脱皮させてもらおう。本気で、改まらして戴こう。
けど、私はこの人、気がついたか、つかんか知らんけど、昨日のお昼食、一緒にさせて戴きながら、言うんですよ。胃が悪い。もう命も難しい程、一時悪かった。まあ、おかげを戴いて、どうやら、こうやら、おかげをいただいとります。けども、まあだこれくらい、いっぱしおかげは、戴けんという状態。夜は牛乳2本、まあ、うどん一杯、と言うような、その、養生中なのですね。ですから、私がキャベツがよかとね。ね、キャベツをば、これくらいば一ちょうづつ、頂きなさい。
毎日。そりゃああんた、一てつも食べられません。そんならミキサーにかけてから、汁だけ飲みなさい。これは、金光様の与え薬として、戴きなさい、ね、教祖様もね、御伝記には載ってないけども、病気の患者がね、参って来るとね、何処何処に何々という薬がある。何処何処に何々の薬を煎じ合わせて飲め、と言うふうに言われた。それを生神様の、お与え薬として、頂いた事実がございます。だからあんた、今日はそれを、私がね、なぜそれを思う。ご飯を食べる間、いっとるのです。この人は。キャベツを食べ。キャベツを食べれて。
それがね、私がこうしてご飯を、食べながら、『肉眼にいただくのが、キャベツをさっさと、皮をはぐところを、いただくんですよね。ですから私が、こりゃあ今日は、キャベツを食べさしゃなことを、言わにゃあならんと、私が、食べとる間、それを私が言う。昨日は申しました。昼ね。とにかくいくらむいだから、はいだからというて、こりゃあ捨てることはいらん。はいでもはいでも、これはちゃんと、お惣菜になるのだから。そしてだんだん、だんだん無くなって、自分というものの、我が小さくなっていってです、いよいよ虚しくなっていくときに、言うならば、あんたの胃病が直る時だと、私は申しましたね。
そんなら先生、この蛍の飛びかったは、どういう意味ですかっちゅう。そりゃあそうたい、蛍はついたり、消えたりじゃろうが。あの人の信心が、この頃、朝参りをしてきよると思ったら、ぴしゃっとやめてしもうてから、ついたり、消えたり、しょうろがのう。ところがね、この人の信心にはね、ついたり、消えたりしよるけれども、それは霊光にも同じ様なもの。それこそ生きた光を、持っておる。不思議な光を、持っておる。ついたり、消えたりしよる。その証拠には、たとえば、合楽でなにかという時には、必ず何処にか引っ張り出されておる。ね、本人がその気になれば、言うならば、誰にも負けん信心も出来る。現在は蛍の様な信心であり、ついたり、消えたりであるから、この蛍の様な信心が、千匹万匹集まってもね、小さい新聞の字が、読めない様なことじゃないか。これはたいしたことじゃない。いくら生きておっても駄目、ね、だからこれが、百燭光の電気に、変わるような時こそが、あの人の信心が、本当に出来た時じゃろうが。そこを神様が、この蛍の絵から、彼に求められるのであろう、と、夕べ話しました。
ね、と、言うように、例えば、そういう事のなかから、一人一人に求めたもうものがある。ね、私には私に、神様が求めたもうものがある。総代には総代に。菊栄会には菊栄会に。たとえば、会なら会にたいしてですね、そうゆうものを、私どもに、気ずかせていただいてです、又、気ずいておってもです、それを、知らん顔をしておる。と、いうような事では、神様は、いよいよはがゆい思いをさせる。
このようにも、あのようにも、間違いのない神様であるならばです、そんならこれが、反対の方に、間違いのないことに、なってこられたら、大変なことだということも、一つ考えなければいけない。そういう意味でです、有難い神様だけども、又、怖い神様、だということも、一つ知るがよいと、私は思います。ね、ですからまあだ言うならばです、これで三日間続いた月次祭の、お湿りの中からでもです。そこのところをお互い気ずかしていただいてですね、一段と朝の修行なら朝の修行に、精魂かたむけさせてもらう。寒修行勢信心のおかげをいただいて、寒修行の中からね、そういう自分に、求めたもう信心の、それを分からしてもらい、そこに取り組まして頂いてね、神様も、ままになって下さる。私共も、ままにならしてもらう。金光大神も喜んで下さる。と、言うようなおかげを、いただこうじゃないか、と、言うのでございます。
先程秋永先生が申しおりましたことも、あの内容を具体的に言うなら、今日私が申しましたような、ことではなかろうかと思うんです。ね、なるほど、会の、それぞれにおいては素晴らしい。みどり会素晴らしい。菊栄会素晴らしい。松栄会素晴らしい。婦人会素晴らしい。けれどもそこに、なんとはなしにです、何か、何かがある。何かがあると、と、言うものを、最近確かに感じる。ね、ですから、話し合うこともよかろう。けども、それよりもお互いが、各々がです、各々が本気で、もっとよい信心をいただいたら、それはもう自ずと、解決するような、おかげになってくる。と、私は思うのでございます。
ね、ひとつお繰り合わせを、いただきまして、どうぞ皆さん、お昼に一ぺん、出なおして来てごらんなさい。それは本当に、見事。言わば、神ながらな庭とは、こうゆうもんであろうかと、言うような、神ながらな庭が、出来ております。ね、なるほど、名人作の庭であるということを、感じますね。皆さんの、確かに一生懸命の、信心でです。まあ言うなら出来た訳でございます。けども、それはね、一生懸命の、それは、私どもに下さった、おかげなのです。これは、神様に、あげたおかげじゃないのです。信心の稽古場である、合楽にね、内外共に、信心の稽古を、させていただかねばならない。ね、はあ、よか庭が出来た、と、言うて、お茶どん飲んでから、そう言うなら、ただ庭を眺める為だけの、庭ではない。と、言うこと。
私はそれを今日ね、本当に、いやというような思いで、分からせられました。と、言うのは、私が今日午前中に、奉仕しております時に、今日は、もう朝から、大変な賑わいでした。お参りが。その中に御霊様の、お祭りがございました。まあ、とにかく忙しかった。その忙しいなかに、ちょっとすく時間が十四、五分あったんです。その時私、最近は、合楽も、だんだん変わって来たなあ。と、例えば、私を中心にして、ここに集まって来る人達がですね。私が、『心眼にいただくのが、文人。墨人。と、いうことを、いただくんです。「ぼく」とは墨ということ。墨の人。どういうことか、分からん。文人と言うのは、文の一つも書く人、と、いう意味だろうと、思うんですけども、だから、墨の人と書いてあるから、字でも書くとか、絵でも書くとか、いう人じゃないかと、思うのです。
それでいただいてから、私が思ったんです。ほんにこの頃は、変わった人達が、例えばね、見えられるなあ、と、例えば、梅里先生にしてしかり、そりゃ、いつかの機会に、みてごらんなさい。ここにも、二、三枚書いて下さってある。その絵なんかは、そりゃあ名人芸ですね。そうゆうような人達がですね、非常に趣味の豊かな、もうお茶なんかは、達人。人形作りにおいては、もう、博多の与一が、その、力賞するほどの、腕を持っておられる方。
ね、それから、この頃から、あの大きなテーブルの、お供えをなさった、湯布院の、いわゆるお金持ちさんでも、やはり同じですね。字も書かれる。絵も書かれる。それがなんとはなしに、こう合楽に、心を向けて下さる。と、言うて、ここの信者じゃない。まあ言うなら、私もいい気になってですね、私達もああいう人達と、お付き合いしていただいて、まあ、それも先生、先生と、言うて下さって、さあ、あの、こちらが、まあ言わんでも、頼まんでも、一筆書いてあげましょう。これも、先生にあげましょう。と、ゆうように、言うて下さる。それこそ金銭にすんなら、いくらかかるか分からん、と、言うような、ああいうテーブルなんかのですね、この、奉納を、たった一ぺんしか会うたことのない、その人が、なさると、いったようなことは、成るほど、こりゃ、合楽の信心。私の信心。と、言うものがです、なんとはなしに、こう、高められて来た。だからこう、集まって来る人達藻、高められた人達が、集まって来るなあ、と、いうようなものを、その、墨人。文人。の中から、感じたんです。
私が。ね、そしたらね、神様がね、『それをひっくり返せば』と、神様がおっしゃった。それをひっくり返して考えたら、と、言う意味なんです。もう、私は、ほんなこて、これから汗が出る思いでした。それをひっくり返したら、どういうことになるか、ね、お前が、自分の道楽なら道楽。自分が楽しみたいと、いうことなんです。ね。梅里先生の方へも、一ぺん機会があったら、行きなさい。喜びなさるでしょう。又、絵も書いて下さるでしょう。ね。これからの、いろんな、言うならば、その、言うならば、有名人ですね。有名人の方達と、お付き合いが出来る。と、言ったようなことを、有難いことども思う。と、言うことは、もうすでに御結界を、おろそに、なりょうる、と、言うこと。
そういう人達が、信心ではない。そういう人達が、集まってくる。と、言うことは、ね、いかに御結界というものがね、おろそかになって行きよるかと、いうことが、それをひっくり返せば。私は神様は厳しいと。又、私の心の底に、私の信心の理想は、なんと言うても、三代金光様。ですから本当に、例えば、梅里先生の所に行け。と。言っても、私は、行きゃあしません。けれども、なんとはなしに、そういう雰囲気がですね。そんならあの人達が、お付き合いして見えたら、たとえ御結界の奉仕があっとっても、まあ、信心仲間で、逆らわん訳にはいかん。ね。
これはどんな偉い人でも、信者ならば。例えば、今日竹内先生あたりなんか、見えとりましたけど。とにかく、午後からでしたけども、立つ暇がないです。ここで。だから向こうに、御用があるけども、ほったらかしておくより、他がない。これは信者だから、これができる。ね。本当に。例えば、私共が、本当に、もう油断も、すきも、できんことだなあ。それをひっくり返せば。私が御結界の人として、御取次者としての、そこに目の荒いものが、いわば、目を出そうとしておるところへ、神様から、このところをいただいてから、いやいやもうああいう人達、どんな有名人であろうが、信心の無い人達と、お付き合いするなんたってちゅうことは、これから全うに、しなければいけないなあ、と、いうことを、感じております。ね。神様は厳しいでしょう。ね。
ですからそうゆう厳しいけども、私共の場合はです、そんなに間違いのなく、おかげを下さる。けども、それなら御月次祭に、表れるこの御天候のぐわいから、考えてですね、私共が、本当に。本当に。少しづつ分からしていただかなくては、相済まんじゃなくてね、怖いという感じがいたします。
折角今一生懸命の信心修行が。朝の寒中修行が。行われておりますから、寒中修行にも出てきて、あのすがすがしい御祈念。又、あの気分の中でです、本気でもう一ぺん自分を見極めて、そして神様の、求め給う信心ね、梅の花を求めたもう方には梅の花の信心をさせて頂こうね、合楽的に改まり付いたり消えたりだけではなく本当に百燭光を目指さして頂いての信心を求められておられる方は、そういう信心を目指して頂こう、そうして神様にはがゆい思いをさせるようなことはしてはならんという信心をね、先程委員長が秋永先生が申しましたようにです「今日のなるほど報告祭でありお礼のお祭りであるけども、本当を言うたらお詫びのお祭りでなからにゃならん」と言ったようなことも、そういうようなことも含められとるようなことじゃないかと思うのでございます。どうぞよろしく。